昭和45年8月18日月例祭

 夏の祈願祭の明後日にせまってまいりました。願う信心と、本気でエー、願わせていただく、訳でございますが、願わせていただく前に、何か分からせていただかなければならないことはないか。願う前に、何かわからせていただくことはないか?というようなものを、わたくしこの二、三日感じさせていただいております。
 先程、前講を福岡の松岡さんがおかげを頂いておられました。うーん、そのお話の中に、先日から、あー、ここのお参りの帰りに、ちょっとした事故に合われた話をなさっておられた。まーおかげで、えー、ほんットに無事故状態、えー、無難の、まー、おかげを頂いて、少しここんところに、まー、ケガをされたと言う程度の事ですけれども、やはり、走っていっておる単車が、から、落ちて転ばえれたというのですから、やはり、落ちようじゃ、自転車から落ちても、命を落とすようなことすら、あるのでございますからねー、まして、単車ですから、どういうことにもならんとも、かぎりませんが、おかげをいただいて、その落ちられてから「あいた」と、思われた。瞬間にですね、親先生ならば、こういう場合、どのようにこのことを受けなさるであろうかと、頭に閃いたと言うておられます。
 私はそれを聞かせていただきながら、だからあたしは、自問自答してみた。あたしならばどうだろうか?と。「あーいたよー」っち。相手がもう少し注意しないから。と、まーそういうように考える人があるかもしれません。これはもうとっさの事ですから分かりませんけれどもです、
わたくしは、善導寺の教会にお参りをさせていただく途中で、ちょうど、おこし屋の手前に橋があります。あすこんとこに、こういう大きな石をですね、子供が何気なしに、「パーン」と投げたのが、私のこの頭に当たった。もうそれこそ、目から火が出るとはあのこと、もうほんとっっに、思いがけないことでございますからねー。えー。そん時にわたくし一番にでたのは、「すいませーん」というこでした。うん。
 それを、すいませんと言わなければならないというのではなくてですね、もう、これはあの、それが本当だということを、様々な体験から分からせて頂いておるからだと思います。おそらくとっさの場合に、もし、あの時、単車から振り落とされて、まー例えばケガをして、「あいた」とこう思うと同時にです、「神様すいません。」という事を、まー言うたであろうと、思いました。それもわたくしが、あー、ここ二、三日というか、この台風以来のわたくしに信心というものを、思うてみてから、それをなおさら、一層深く思うのでございます。
 今度の台風は、まー、あたくしどもが  (おぼえて) 初めてと言われるくらいに、あちらこちらに被害が出ましたねー。この近所でも随分、被害が出ました。ここでも、植木がほとんどこう、傾いたり、あの大きい、た、のが、あのー、本殿と内伝の、(    ?  )間にある大きな木が、(    ?   )のほうへ、こう、倒れておる。むこうの、(   ?   )のも倒れました。立てっとたけれども、また、今日の風でまた倒れておる。よっぽど、簡単にしておったんでしょうね。というほどしにですねー。今度の風は、いわば、あー、激しい風でございました。こんなにひどいとは思わなかった。ところが、どうして、えー、
 あたくし今日歯医者に参りましたから、高橋さんの車で送って頂いて、えー、歯の治療をしてまいりましたが、もう、こう、車で参ります時に、とにかく、何が飛んでおるっち、瓦が飛んでおる、もうほんっとに、うーん、夜、あの、台風の罪後ともうしますかねー、もう、無残なその、状態のところが幾らも、おー、見てまいりました。うん、ほんっとにあたくしはね、それを、行き戻りに見せていただきながら、もうほんっとに「すいません、すいません」と、心の中に、すいませんを唱え続けさせてもらいました。以来、あのー、台風からこのかたこっち、わたくしはもう、ほんっとに真剣に(おわび)  をさせていただいております。
 今日もちょうど、おー、神饌物、あー、神饌物が終わったという頃、伝記が停電になりましてね、ちょうど、おー、あたくしが霊神様に、ご挨拶をさせていただき終わって、松岡さんがここを立たれたと同時に、まー、電気が、灯かりがつきましたが、まー、今晩は一つ、なんていうかねー、昔ながらのね、いわば、そのろうそくの明かりで、えー、まー、しみじみしたお詫びのお月波祭を、奉仕させて頂きたい。みんなもそういうシーンとした、あー、御月波祭をいただいてもらいたいとおもいました。ね。けれどもその根本のところは、やはりお詫びです。ね。
親鸞上人様がおっしゃったと、世の中のこと、ほど、親鸞一人のためにあると、さまざまな事が。わたくしもそれをほんッとに痛感いたします。まー、世の中のこととまでは言えませんけれどもです、いわゆる、ここを中心にして、例えば電気が消えておると、ね、ほんっとに、わたくしのお詫びが、まだ成就しておらんから、電気が消えたように思うます。ほんっとに実感です。これは。
 台風のやはり災害を受けられたと聞けばです、ほんとっっに、わたくしの信心がおかしかったから、このおような災害を皆さんが受けられたと、天地が自由になるというほどしの神様の頂きながら、わたくしの祈りと言うか、願いが、もっと熱烈な、願いであり、神様の受けてくださる、ほどしのことであったら、このような風もよけるなり、又は、あー、(しさん)   するなり、また、高い所を吹くなり、何とか神様がしてくださったはずなんだ。ほんっとに神様あいすいません。という、いわばお詫びをね、このー、おー、台風以来、真剣にお詫びに取り組ませていただいております。
 今年は、願い月。今月は願い月と。けれどもね。この、お詫びが成就することをもってです、願いとさせていただき、ね、明日、そして明後日に控えるところの、おー、祈願祭をです、ね、詫びる所は詫び、許される所は許されて、願うことを願わせてもらう、御大祭にあらせていただきたい。ならせていただかなければならんっと、思うております。ね。だから、みなさんもやはりです、ね。いかに、願い願い、今日この月も願いだけで良いという、意味ではなくてです、願う前に、やはり、詫びるところは詫びらせてもらうという、あたくしは信心、しかも、それは、何処を詫びてよいか分からんといわ、もうそれまで。
まー、詫びる気にならせて頂いたら、台風のことだけじゃない、今日の電気が、アー、エー、停電したことでけではない。もうほんっとに、もう、あれもわたくしの不行き届きのために、これも、ということばっかり。ね。詫びの、いわば、本質を、分からせてもらうということは、ね、いよいよ、自分自身が分かるということだと、あたしは思います。
 ね。親子の問題でも、夫婦の問題でも、家内がまっちと行き届くと、子供がまっちと言うことを聞いてくれると、と、どうぞ家内が言うことを聞きますように、子供がまっちとシャンとしますようにと、例えば願うこともよかろう、ね。けれどもね。けれども、いや、私が分かり出した時にです、家内じゃない子供ではない、わたくしがもう、詫びる以外には何にもないということが分かる。ね。あたくしは詫びる、詫びる本質はそれ、自分自身が分かるということだと思うです。それが日頃は、怠慢になっておりましたり、お気づきを頂いておっても、お気づきをお気づきと気づきませんでしたり、何かあってみて、ハッとする。ね。転んでみて、ね、言うならば、すいませーんというのが出てくる。ね。あいが引っかかったから転んだのではない。じぶんが眠っとたから転んだのじゃーない。向こうから引っ掛けられならんような、自分が眠らなければならないような、そこのところの元の元というものを、辿らせてもらう時にです、ね、もうすいませんより他に出てこない。ね、いつもわたくしが言うように、壁で頭打ってこぶが出た。あーいたよ、っち言うちから、かも居でも叩きそうなことでは、いけないっち。ね。これは人間関係においても同じことなんですよ。わたくしはね、そこが本とーに分からないとね、信心の(妙)   というか、本当のおかげには繋がらないと思うです。ね。どんなに願いが熱烈であっても、ね。
 わたくしはですね、いわゆる、明日明後日に控えておるー、なるほど祈願祭なんだ。けれども祈願の、やはり、熱闘を捧げさしていただく前に、本気で、詫びねばならないことがありはしないか、それも、御気付けに御気付けを頂きながら、御気付けを御気付けともきづかづに、ね、ああいう、台風のような激しい、
 今日でもそうでした。ちょうど、おー、夕方からここあたりはあー、雨と共に、うーん、夜は雷雨でした。雷さんがもうがちがちなりました。もうほんとにね。わたくしが、いわゆるその、詫びておる時ですから、ちょいとようーガラガラいうだけじゃなくてね、もうあたくしが天地から叱られておる思いでね、身のちぢむ思い出お詫びさせていただいた。ね。こうしていわば台風、(  ?   )真剣にお詫びに取り組ませて頂いておりますから、はたしてね、たいさい、までにね、お許しが頂くか頂かんか、これはまー、分からんに致しましてもね、どうでも、お許しが頂けれる、いわば、おかげをいただくために、神様の前にただ、すいませんすいませんと詫びるだけではなくて、詫びた、しる、証が立てられなければならないと思うております。ね。お詫びのおしるしの、いわゆる証が立てられなければ、神様は許してくださらないのだ。と。ね。
 
詫びる、許してやりたいのが親心じゃ。と、ねー。おかげを蒙らせてもろうて、ありがたい。と神恩報謝に、かんどうして、神様に御礼を申し上げる。又は願いが段々、高度化して、神様がお喜びいただけるようなことの願いが真剣にできる。ね。神様が喜んでくださらんはずがない。ね。神様がお願いなさるほどしの願いが、私共にできるようになる願い。ね。そういう願いとか詫びるとか、または、御礼申し上げるということによって、神様と通わせて頂く。そこから神様との交流というかねー。うー、おかげが受けられるということは、どういうことか、神と交流するということは。

わたくしはこれは、いち、えー、えー、昨日から、それから今日お昼に、いー、ここで奉仕させて頂いておる時に、感じたわけでございますけれどもめ、さあ大祭ともなると、皆さんがね、いよいよたくさんのお供えをなさらなければならん。なさいますよね皆さんが。ですからその、せっかく、お供えですねー、わたくしはねー、無限のおかげの受けられるものに繋がるほどしの、お供えでなからなければならんないということです。わたくしはそのことを、今日痛感いたしました。お詫びをさせていただいておって、そういうことを感じさせていただいた。
 あのね。例えば100円の御初穂がね、もう本当に有り難い、勿体無いでお供えができるなら、もうあなたは、絶対100円には不自由なさいませんですよ。絶対。ね。お供えというものはそういうものなんです。ね。1000円のお供えが日々ありがたく出来るなら、あなたはもう、1万円の金にはもう絶対にふじゆうなさいませんよ。これはねわたくしはね、確信を持ってまー、今日は私申し上げられる。ね。ただしです。ね。それには一所懸命の、例えば、いうなら真心がね、または、お詫びがね、行われてなければならないということです。ですから、せっかく、100円の御初穂をさせていただけでもです。ね。一生懸命の者。ね。たとえて言うならばです。あいすいません。というもう、ね。きょうあたくしは、そのことを   (?)   おりますがね、一生懸命の皆さん、お供え、おかげを頂かんなーならんけんお供えしよーとじゃないですよ。神様は皆さんが願っておられるおかげを頂かんならんけんがなことは、もうほんと、(?)   そなおかげ。本当はそのことを通してですよ。氏子の真を受けてくださり、それを力にもお徳にもしてくださり、それがもう、無尽蔵無限の働きに、通ずる通うということ。
 昨日期せずして、東京のおー、ある今日から送ってきておられた、ご本に、えー湯川先生のことが書いてあった。初代の湯川先生のことが。そのお話の中にですね。みんなが、しかともない人間の所を目当てにするからだめだ。と。神様の懐を目指せ。神様の懐に手を突っ込め。限りがない。無尽蔵だ。と言うておられます。また、昨日おんなじ、昨日一緒にね、金光新聞が送ってまいりました。それには、四国の双岩という、もう四国一番の御比例が、いま、立っておるという教会の、話が、うーん、全部読んでおりませんけれど、おー、いわば、それが、無尽蔵のおかげに繋がる。と。双岩ではもういうならば、必要な物が必要に応じて、頂けられておられるほどしの、お徳を先生が受けておられるらしいです。その事がかいてある。いわば、神様の懐に手を突っ込んでござるちゅーて。ね。そういうおかげをいただけということは、大変な、むつかしことだろうと、こう思う。なるほどそれは難しい。今言う、100円のお供えををさせていただくでも、ほんっとに、喜び、でなかったらお詫び。でなかったら、真真心、あい、というものがです。その中に込められてまいりまして、100円が500円1000円と、例えばお供えが出来るようになれば、いわば、1000円には不自由しないということはね、これはもう大変なおかげなんですね。ほんというたら。1000の徳なのですから。つこうて減る、いわば金1000円ではなくて、ね、限りなくあるのが、1000円なんです。1000円には不自由なさらない。ね。そのことを頂いてから、今ここにいただいておりますことをです。ほんっとに、無尽蔵のそれに繋がらなければならないなーと、思わせていただいておりましたら、
 わたくしが、修行中に、皆さんが、よく聞いて下さいます、あの、あー、善導寺の御大祭の時に、ね、わたくしがメリケン粉のお供えをさせて頂いた、お話を皆さんご承知でしょう?ね。このメリケン粉をお供えさせて頂こうと、心に決めさせていただいたら、このメリケン粉をお供えしてしもうたら、かっっ、ね、かばめのほうでは、家内やら子供やらがね、それこそ、鶏が餌を求めておるように、これを待っておるのぞと。いう、いわば深刻なお知らせを頂いて、それでも私の心には、今までは気がつなかった、はーん、ほんっとに、こうやって、大祭の御用に帰らせて頂いておるが、ね、ご祭典費のおかげハ、まーなんとか、まー、おかげを頂いたが、今度は何にもお供えが出来んなー、と。もう、ご祭典費のお供えが出来取るけん、よか、よか、と。その事をお届けしたら、親先生が「あん、これだけのことが出来よるけん、そげん心配しなさんな」ということを、親先生が仰った。それでもこちらは、やはり、ね。年に一回の御大祭に、お供え出来ないことは、神様に対してもあいすまんことだな―と思うて、けれども実際は、ない袖は振られんで、お供えが出来ない。椛目のほうからね、あなたが帰ってくっとじゃから、どうしてもひとつ、何か食べ物を、食料を持って帰ってくれと言われておるから、無理をして、一表あまりのメリケン粉をですね、えー、配給の物を取らせて頂いて持って帰るよ、ったら、神様から、ね。「ここにあるではないか」とお知らせをいただいてです、わたくしの腹は決まった。ほんなこともうこれは、家の家内子供が食べるもんと思うとったら、そうじゃなかった。「これが、いば、お供えだ」と私が思うた。そんときのことを頂くんです。ね。そして、次々と神様はです、んなら、これをお供えしてしまえば、後はどうなるかと、暗澹たることを、教えてくださったけれども、もう、後は家内のことは子供のことは、神様にお任せします。わたくしにとっては年に一度の御大祭。ね。一生懸命に、ここに、これがあったっと気づかせて頂いた限り、これをお供えさせて頂かなければ、ならんという、いち、一心なのです。ね。そしたら神様が、次には大きな水鳥がね、その、うーん、たくさんの、小さい小鳥が、こう、散らばっていく後から、「やいー」っと、矢を射るような勢いで、大きな魚を口に加えて、矢を射るような勢いで、えー、子供の後を、水鳥の後を、追うていかれるお知らせを頂いた。ということは、おかげいただくなーという、ふうに、思わなかったけれども、実際にはおかげであった。ね。御大祭を終えて帰ったら、家では、あー、それこそその当時、進駐軍しか頂けないような、あー、それこそ、ギーギー言うごたーる、メリケン粉が、一表、ある所から贈られておった。ちょうどいっしょです。と。ね。
 だから、そういうようなね、思いのお供えならです、もう無尽蔵だということです。つながることは。その事を頂いたんです。で今日わたくしはそのことを、えらい、確信を持ってです、例えばお供えをさせていただくなら、せっかくお供えをさせていただくならば、そういう一生懸命の思い、思いがかけておるならば、思いがかけておりますと言うて、詫びてお供えをしょーと。ね。
金光様が、三代金光様があの、御造営の時に、えー、たくさんな、御造営費がどんどん集まってくる中にですね、不浄のかかったのは、かつがつお返しになったということですね。その事を聞いておりましたから、私もちょっとわたくしとしては、分に過ぎるぐらいのお供えをさせていただくもんですから、やはり不浄がついてるです。だからもう、ほんとに、あいすまんことだかり、どもというて、わたしそのことをですね、金光様の(声で)   もう不浄だらけでございますけれども、どうぞ、このところは、金光様のお徳によってお詫びして頂いて、お納めいただきますように、と言うて、私はお願いし、まー、お供えさせてもらった。ね。帰されたら大変。ね。そういうね。わたくしはその、おー、思いをこめてのお供えならばね、それがそのままね、徳になると言うよりもね、無尽蔵のそれにつながるということです。ね。神様にあたくしが、一杯のお茶を献じた。ね。ご祈念をしても、ご祈念をしても、よいご祈念がでけん。それでもやっぱり、(?)    出て、御祈念をさせてもらう。ご祈念がでけん。そ。んなこと皆さんもありましょうが。そげん時やめちゃいかん。そげん時はそげん時ほど、神様に縋っていかにゃん。お参りしよごとなかときがあるでしょうが。そげん時ほど神様に、それこそ泣く泣くでも縋っていく。ね。そんなことでございますから、ちょうど横に、エー、シャンシャン出がらしのお茶が滾っておった。まー、お茶でも頂いてもういっぺん、お願いしなおそうと思うてから、一杯お茶を頂いた。ところがそれがね、断食を続けておるわたくしのお腹の中に、染み込むほどにおいしかった。「おいしい、このおいしいお茶を」と、そのまま、わたくしは濯ぎもせずに、それにお茶を汲んで、神様の前にお供えさせていただいた。ね。以来わたくし、お茶を、お茶の葉というものに不自由したことがないです。本っとですよ、以来。しかも最近ではもう、毎日毎日、勿体無いごと玉露ばー―かりです。あたくし今頂いてるのは。ね。ですからね。そういうね、そういう例えば、なら、100円なら100円、1000円なら1000円のお供えの中にです、そういう思いをこめてのですね、あたしだから、その、そういう思いを込めるということだとも思います。ね。それがいわば、無尽蔵の物に繋がる。それが神様の懐の中に手を突っ込んだようなものの、いよいよ、大祭には皆さんが、ね。なにがなんでもやっぱり、様々に苦労なさって、ね。練るに練られたお供えができられますならばです、詫びる所は詫び、お礼を申し上げる所はお礼のしるしに、ね、あたくしが、奉れ、神様が受けくださり、交流する時、そこからね、わたくしは、無尽蔵のおかげに繋がっていくほどしの、おかげをいただかなければならない。そういう願いを込めての願いの、いわば祈願祭でございます。ね。
 このことばかりはいっちょん、お願いしよーなかったけど、どうでもこうでも無尽蔵のです、限りのないおかげに繋がらせて頂くところのです、おかげを頂かせていただく祈願なのです。そういう祈願をです、(ためにはね)  あたくしどもがね、本ットにそこから真心が生まれてくるほどしのです、ね、心の状態というものを頂くために、現在あたくしがここ三、四日、おかげをいただいておりますように、ね、いよいよいわゆる、お詫びの放出というものがです、いよいよ自己の、おー、内容というものが分からせてもらう、自分自身というのが、(?)  とこらからです、お詫びが、それこそ搾り出す様なおかげがでてくる。しかもそのお詫びが、ただすいませんだけではない。詫びる証を立ててのいうなら、お詫び。そういう、お詫びの先に祈願がある。と思うのでございます。ね。明日は。あー、ね。えー、今日は御月波祭。明日は前夜祭。ね。そしてもう前夜祭にもご参拝を頂いて、大祭が、いよいよ、夏休みの(?)   でもございますから、もうそれこそ、老いも若きも、もうみんな、祈願の、おー、大祈願のご祈念にあわせていただいて、家族勢をそろえた信心から、そのようなおかげを頂いて頂きたいと思うのでございます。
そんなわけで、あー、御大祭が、明日明後日に控えておりますのに、今度はもう、大変に、この、大祭の準備がはかどっておりません。ちょうど、17日の大掃除でももう、ほとんどそこのことで使われ、まー、婦人の方達の中の、お掃除は出来ましたけれども、まーだ、いわゆる雑然といたしております。ちょうど、「よそんかただんじゃなか」「自分方はまーだ(は屋根がとんどる)」   といッたところがたくさんございましたからね。大風の後ではありましたから、中々出来ませんでした。だから、あしたもう一日あるんでございますから、それこそいよいよお粗末、惰りのないお祭りを迎えさせて頂く意味合いにおいても、又は今日あたくしが申します、ほんっとに、お詫びのしるしでも、本気で御用させていただいて、えー、二十日仕えられる、うー、大祭に望みたいと思うのでございます。どうぞよろしゅう。